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2021年12月30日 (木)

神のご計画と働きの一部

 創世記12:1-5には、
“1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
4 アブラムは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。
5 アブラムは、妻のサライと甥のロト、また自分たちが蓄えたすべての財産と、ハランで得た人たちを伴って、カナンの地に向かって出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。”(2017)とあります。

 献身者としての召命、宣教師としての召命に、この箇所の御言葉をかけられた方もいるかも知れません。
今日は、キリスト者全員に対するものとして捉えて考えてみたいと思います。
キリスト者は、それぞれ一人一人が、恵みによって、他のものから切り離されて、神の国へと入っていったのです(神の国へと入れて頂いたのです)。
これは、人の熱意や、意志や計画によるものではなく、神の計画であり神の業です(エペソ1:4.5、ヨハネ1:12、6:26)。

 創世記12:1には、アブラム(後のアブラハム)に、ヤハウェ(主)が、「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」と命じた御言葉が記されていますが、ヤハウェ(主)がこのようにアブラムにお話になったのは、初めてではありませんでした。創世記には記されていませんが、聖霊に満たされて語ったステパノの証言によると、次のように記されています。
使徒7:3.4には、“3 『あなた〔アブラム(筆者挿入)〕の土地、あなたの親族を離れて、わたしが示す地へ行きなさい』と言われました。4 そこで、アブラハムはカルデア人の地を出て、ハランに住みました。そして父の死後、神はそこから彼を、今あなたがたが住んでいるこの地に移されました”とあります(2017)。

 「カルデアのウル」というのは、考古学者たちの発掘によると、“古代メソポタミア南部の都市。現在のイラク南部、バグダード南東約350キロメートルにある遺跡で、テル・ムカイヤル(瀝青(れきせい)の丘)とよばれている。”(日本大百科全書のウルの項抜粋)場所ということです。

 アブラムの出自については、創世記11章と1歴代誌1章に記されています。
アダムからアブラムまでの系図は、歴代誌(2017訳)の方の名前の表記を基にすると次のように記されています。
“アダム→セツ→エノシュ→ケナン→マハラルエル→ヤレデ→エノク(死ぬことなく天に移された人)→メトシェラ→レメク→ノア(箱舟を造ったノア)→セム→アルパクシャデ→シェラフ→エベル→ペレグ→レウ→セルグ→ナホル→テラ→アブラム(後のアブラハム)”とあります。

 使徒7:2-4には、
“2 するとステパノは言った。「兄弟ならびに父である皆さん、聞いてください。私たちの父アブラハムがハランに住む以前、まだメソポタミアにいたとき、栄光の神が彼に現れ、
3 『あなたの土地、あなたの親族を離れて、わたしが示す地へ行きなさい』と言われました。
4 そこで、アブラハムはカルデア人の地を出て、ハランに住みました。そして父の死後、神はそこから彼を、今あなたがたが住んでいるこの地に移されました”(2017)とありますが、創世記11章にそのことは記されておらず、創世記11章の方は、
“31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子である孫のロトと、息子アブラムの妻である嫁のサライを伴い、カナンの地に行くために、一緒にカルデア人のウルを出発した。しかし、ハランまで来ると、彼らはそこに住んだ。32 テラの生涯は二百五年であった。テラはハランで死んだ。”(2017)と記されています。

 そして、父の死後、再度、ヤハウェ(主)は、アブラムに、「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1・2017)と語られたのです。

 アブラムは、神であるヤハウェ(主)から最低2回の声かけを頂いてカナンの地に入っていったのです。

 アブラム(後のアブラハム)の最初は、信仰の父と呼ばれるようなものではなく、アブラムもまた、ヤハウェ(主)が時間をかけて信仰を成長させてくださったことを知るのです。イエス様を信じたからと言って一足飛びに信仰の人になるのではありません。主と共に歩もうと思いつつも、主に従えたり、従えなかったり、また悔い改めて主に従うというようなことを繰り返しながら、主に在って成長させて頂くのです。
成長させるのは神ですから(1コリント3:7)。

 新生させて頂いた人達は、御父の子どもです(ヨハネ3:3.6、1ヨハネ3:1.2、1ペテロ1:3)。
御父は、根気よく、新生したキリスト者を成長させてくださるのです。
健全な成長を遂げるためには、栄養も必要です。
栄養を取る霊的食物は既に用意されています。
それは聖書です。
乳幼児の頃は、御言葉の乳(1コリント3:2、1ペテロ2:2)が必要です。
しかし、成長するにつれて堅い霊の食物も必要となります(ヘブル5:13-6:3)。
パウロはコリントの信徒たちに、「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」(1コリント11:1・新共同訳)と語りました。
しかし、乳幼児のだれもが、いきなりパウロのように、キリストを見倣うようになれるわけではありません。

 ユダ書には、「しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。」(20節・2017)と記されています。

「聖霊によって祈りなさい」という箇所を直訳すると、「聖い霊の中で祈りなさい」となると思います。
聖霊{(真理の霊)ヨハネ14:17}は、聖書の執筆者に働いて聖書を書かせたのです(2テモテ3:16)。
御霊によって祈る(御霊の中で祈る)ときは、神が与えた下さった御言葉から外れることはないでしょう。肉に従って祈りましょう、という言葉は聖書の中にはありません。
また、みことばを悪魔悪霊のように悪用して用いる(一例として、マタイ4:6)ことの無いよう注意する必要があると思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちがまだ存在する以前に、あなたのみ旨の中で、あなたの愛によって、ご計画が立てられていたというあなたの遠大なご計画性と実行力に驚嘆し、御名をほめたたえます。
イエス様がキリストであり、神のひとり子の御子であり、救い主であると、私たちが信じさせて頂けたのは、神の業であることを覚えます。
あなたは、私たちを新生させた後も、一人一人に応じて成長させてくださっておられますからありがとうございます。
三一の神様の御名がほめたたえられますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月29日 (水)

祝福されています。穏やかな人、謙遜な人

 マタイ5:5を
文語訳は、“幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん。”と訳し、
2017は、“柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。”と訳し、
聖書協会共同訳は、“へりくだった人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。”と訳しています。

 「柔和な」、「へりくだった」と訳されている語のギリシア語原語は「プラウス」で、どちらの意もあります。
「プラウス」の原義は、mildで、人について用いるときは、穏やかな、優しい、の意になります。そして、言外の含みとして、謙虚な、の意があります。普通は、おとなしい、柔和な、温和な、と訳されます。

 リビングバイブルは、“柔和で高ぶらない人は幸いです。全世界はそういう人のものだからです。”と訳しています。
リビングバイブルの訳を読むと、該当する人は、神が人となられたイエス・キリスト様だ、と思えます。
マタイ11:29に、「わたしは心が柔和でへりくだっているから、・・・・」(2017)とイエス様の御言葉が記されていますので。

 イエス様は、キリストの千年王国で地のすべてを、エルサレムから統治なさるのです(イザヤ2:3、エゼキエル48:8-10、21.22)。各地の統治者を幾人も立てますが(黙示録20:4)。

 私が確信の持てない事柄があります。
それは、異邦人キリスト者は、キリストの千年王国時代には、地にいて、主の下で、イスラエル以外の地を、それぞれ統治するのか、それとも天のエルサレムにいるのか、ということです。

 キリストの千年王国時代のイスラエルの地は、イスラエルの12部族の人たちが住んでいます。12弟子の人たちがイスラエル各部族の人たちを統治することは不思議ではありません。
 ルカ22:28-30に次のように記されていますから。
「28 あなたがた〔使徒たち(筆者挿入)〕は、わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕が種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。
29 だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。
30 あなたがた〔使徒たち(筆者挿入)〕は、わたしの国〔キリストの千年王国(筆者挿入)〕でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」(新共同訳)とります。

 キリストの千年王国時代は、世界の中央がエルサレムであり、そしてその周囲にイスラエル領があります(エゼキエル47.48章)。イスラエル以外の国々の民、すなわち諸国の民は、ほかの地に住みます。
 ゼカリヤ14:16-19には、
“16 エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者〔世の終わりの大患難時代を生き残った者(筆者挿入)〕はみな、毎年、万軍の主〔ヤハウェ。この時代は特にキリスト・イエス(筆者挿入)〕である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。
17 地上の諸氏族のうち、万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である王を礼拝しにエルサレムに上って来ない氏族の上には、雨が降らない。
18 もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、雨は彼らの上に降らず、疫病が彼らに下る。これは、仮庵の祭りを祝いに上って来ない諸国の民を主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が打つ疫病である。
19 これが、エジプトの罪への刑罰となり、仮庵の祭りを祝いに上って来ないすべての国々の罪への刑罰〔干ばつと疫病による刑罰(筆者挿入)〕となる。
20 その日、馬の鈴の上には「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕への聖なるもの」と刻まれ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)の宮の中の鍋は祭壇の前の鉢のようになる。
21 エルサレムとユダのすべての鍋は、万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)への聖なるものとなる。いけにえを献げる者はみなやって来て、その一つを取ってそれで煮るようになる。その日、万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)の宮にはもう商人がいなくなる。”(2017)と預言されています。

 キリストの千年王国時代の前に、大患難時代があり、それに突入する前にキリスト者の体は、永遠に滅びることのない霊の体に変えられています。従って、飢えや疫病から害を受けることはありませんし、何よりもキリスト者はキリストの花嫁です。
 キリストの千年王国時代の預言は数多くありますがその中から詩篇48篇を下記しておきます。
“1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。主の聖なる山、私たちの神の都で。
2 高嶺の麗しさは、全地の喜び。北の端なるシオンの山は大王の都。
3 神はその都の宮殿で、ご自分を砦として示された。
4 見よ、王たちは集って、ともどもにやって来た。
5 彼らは、見ると驚き、おじ惑い、慌てた。
6 その場で震えが彼らをとらえた。子を産むときのような激しい痛みが。
7 東風によって、あなたはタルシシュの船を砕かれる。
8 私たちは聞いたとおりを見た。万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)の都、私たちの神の都で。神は都をとこしえに堅く立てられる。 セラ
9 神よ、私たちはあなたの宮の中で、あなたの恵みを思いました。
10 神よ、あなたの御名と同じく、あなたの誉れは地の果てにまで及んでいます。あなたの右の手は義に満ちています。
11 あなたのさばきのゆえに、シオンの山が喜び、ユダの娘たちが楽しみますように。
12 シオンを巡り、その周りを歩け。その塔を数えよ。
13 その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。
14 この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神。神は死を越えて私たちを導かれる。”(2017)と記されています。

 さて、マタイ13:43に、「そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」(2017)とイエス様は語られ、
また、ダニエル12:3には、“悟りある者たちは大空の光のように輝き、多くの人々を義に導いた者たちは、星のようにとこしえに光り輝く。”(聖書協会共同訳)と預言されています。
「彼らの父の御国で」と言われている「彼ら」とは「神の子どもたち」を指しています(1ヨハネ3:1.2)。
「悟りある者たちは大空の光のように輝き」とありますが、箴言9:10には、“主を恐れる〔畏れる(新共同訳)〕ことは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである。”(口語訳)とあります。

 父の御国はキリストの千年王国の地上部分ではなく、天にあります。
イエス様は、「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネ14:2.3・2017)とも語られました。
私たちの天における住まいは、父の家のどこかです。
イエス様は、現代でさえ、天の父の右に座を占めておられる(マルコ16:19、ローマ8:34)と共に、霊において、私たち新生した者の内に住んでくださっておられます(1コリント6:17、コロサイ1:27)から、キリストの千年王国時代に、天におられ、地にもおられるということは可能なのでしょう。

 キリストの千年王国時代、私たち異邦人キリスト者は天に住むのでしょうか、地に住むのでしょうか、あるいは天地を往来するのでしょうか?
主は未だ、私に確信を持たせてくださっておられません。従ってはっきりしたことを言えないのです。
しかし、いずれにしても、いつもイエス様と一緒なので満足です。
1テサロニケ4章には、
“16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”(2017)と記されています。
ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
とこしえにイエス様と一緒にいられますから、キリスト・イエス様の御名の中で大いなる感謝をささげます。
アーメン。ハレルヤ!

2021年12月28日 (火)

知恵と知識

 箴言21-102017は次のように記しています。
“1
わが子よ。もしあなたが私のことば〔ヘ原語「エーメル」(筆者挿入)〕を受け入れ、私の命令〔ヘ原語「ミツバー」(筆者挿入)〕をあなたのうちに蓄え、
2
あなたの耳を知恵〔ヘ原語「ホクマー」(筆者挿入)〕に傾け、心を英知〔ヘ原語「ターブーン」(筆者挿入)〕に向けるなら、
3
もしあなたが悟り〔ヘ原語「ビーナー」(筆者挿入)〕に呼びかけ、英知〔ヘ原語「ターブーン」(筆者挿入)〕に向かって声をあげ、
4
銀のように、これを探し、隠された宝のように探り出すなら、
5
そのとき、あなたは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れる〔ヘ原語「イルアー」(筆者挿入)、畏れる(聖書協会共同訳)〕ことをわきまえ知り、神を知ることを見出すようになる。
6
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が知恵〔ヘ原語「ホクマー」(筆者挿入)〕を与え、御口から知識〔ヘ原語「ダアト」(筆者挿入)〕と英知〔ヘ原語「ターブーン」(筆者挿入)〕が出るからだ。
7
主は正直な人〔ヘ原語「ヤーシャル」(筆者挿入)、正しい人(聖書協会共同訳)〕のために、すぐれた知性〔ヘ原語「ツーシーヤー」(筆者挿入)〕を蓄え、誠実に〔ヘ原語「トーム」(筆者挿入)、完全な道を(筆者挿入)〕歩む人たちの盾となり、
8
公正の〔ヘ原語「ミシュパート」(筆者挿入)、裁きの(筆者挿入)〕道筋を保ち、主にある敬虔な人〔ヘ原語「ハーシード」(筆者挿入)、(主に在る)「忠実な人」(聖書協会共同訳)〕たちの道を守られる。
9
そのとき、あなたは義〔ヘ原語「ツェデク」(筆者挿入)、正義(聖書協会共同訳)〕とさばき〔ヘ原語「ミシュパート」(筆者挿入)〕と公正〔ヘ原語「メイシャール」(筆者挿入)、公平(聖書協会共同訳)〕を、またすべての良い道筋をわきまえ知る〔ヘ原語「ビーン」(筆者挿入)、見きわめられるようになる(聖書協会共同訳)〕。
10
知恵〔ヘ原語「ホクマー」(筆者挿入)〕があなたの心〔ヘ原語「レブ」(筆者挿入)〕に入り、知識〔ヘ原語「ダアト」(筆者挿入)〕がたましい〔ヘ原語「ネフェシュ」(筆者挿入)〕に喜びとなるからだ。とあります。

 知恵には、良い知恵と悪い知恵があります。
神であるヤハウェ(主)から出た知恵とヤハウェ(主)に従わないor敵対するところから出た知恵とがあります。
ヤコブ115に、そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。2017)という聖句があります。
この箇所を、岩波訳は、その知恵は上から降って来たものではなく、地上的で、生得的で、悪魔的なものである。とあり、
フランシスコ会訳には、このような知恵は、上から下っ てくるものではなく、地上的なもの、この世の命に生きるもの、悪魔的なものです。とあります。

 上記の箇所の前後の箇所を記すと次のようになっています。
“13
あなたがたのうちで、知恵があり、分別のある人はだれでしょうか。その人はその知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。
14
しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりするのはやめなさい。
15
そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。
16
ねたみや利己的な思いのあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。
17
しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。
18
義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。2017)と記されています。

 上から、すなわち主なる神様からの知恵の性質は、17節に記されているように、きよいもの、平和で、優しく、協調性のあるもの、また、あわれみと良い実に満ち、偏見や偽善のないものであると教えてくれています。 

 パウロは、コリント人(信徒)への手紙の中で、この世の知恵と神の知恵の違いを次のように語っている箇所があります。
“1:20
知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
21
神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。
22
ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。
23
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、
24
ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。2017)と記されています。

 神様の知恵の一つを1コリント130は、次のように教えてくれています。
・・、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。2017)と記されています。
神のひとり子の御子が、肉体を纏い、十字架上において、私たちのために贖いを成し遂げ、そのことによって、私たちを義とし、聖とするということは、父なる神の知恵であったのです。

 私自身の記憶を遡ってみると、肉において知識や知恵を追い求めていた期間が長かったことを覚えます。そして、箴言210に、知識〔ヘ原語「ダアト」(筆者挿入)〕がたましい〔ヘ原語「ネフェシュ」(筆者挿入)〕に喜びとなるからだ。とあることに驚嘆します。
ネフェシュ(たましい)は生まれたときからのものであり(創世記27の原語)、イエス様を信じさせて頂いたときにたましいは救われたのです(1ペテロ19)。救われたからこそ、明確にイエス・キリストが救い主であり、主なのだと信じているor信じることができているのです。
イエス様に救われてからも、たましいの考え方は、肉的なそれまでの生き方、考え方に染まっています。きよめられ続けることによって主のかたち、神の御性質にあずかる者とされていくのです(2コリント3182ペテロ14)。

 知恵についても、肉的なもの、悪魔的なものがあるということを前述しました。
上からの知恵と知識とは、新生させて頂いた霊によって先ず把握するものなのでしょう。
ある人には御霊を通して知恵のことばが、ある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられています。1コリント1282017)と記されていますから。

コロサイ2:3には、“・・キリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。”(2017)とあります。

 私たちは、主イエス様と共に歩むことによって、また主イエス様に教えを乞うことによって、また主イエス様の行動や言葉を見聞きすることによって、主イエス様からの知恵を少しずつ得ることができます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの恵みを感謝します。
日々主と共に歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月27日 (月)

正しいものを祝福してくださる主

 詩篇512を、
2017
は、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、まことにあなたは、正しい者を祝福し、大盾のようにいつくしみでおおってくださいます。と訳し、
 新共同訳は、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたは従う人を祝福し、御旨のままに、盾となってお守りくださいます。13節)と訳し、
 口語訳は、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたは正しい者を祝福し、盾をもってするように、恵みをもってこれをおおい守られます。と訳し、
 リビングバイブルは、神は心から信じる者を祝福します。主よ、あなたは愛の盾で彼らを囲みます。と訳しています。

 「正しい者」(2017、口語訳)、「従う人」(新共同訳)、「心から信じる者」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ツァディーク」で、Strong辞書には、just(正しい、公正な), lawful(合法の、法を順守する), righteous (man){正義の、公正な、正しい(人)}、の意があると記されています。

 詩篇5篇はダビデの詩ですが、ダビデは、詩篇5篇で、自分をどの様な正しい人であると言っているのかをピックアップしてみます。

2
節には、“私の王、私の神、私はあなたに祈っています。”(2017)とあります。
リビングバイブルは、その箇所を、“王なる神よ、私はあなた以外のだれにも、決して祈ったりしません。”と意訳しています。

7
節には、・・、私は、あなたの豊かな恵みによって、あなたの家に行き、あなたを恐れつつ、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します。とあります。
この箇所をリビングバイブルは、・・、私は、憐れみと愛に守られて、神殿へまいります。心の底から畏れかしこんで神を礼拝します。と訳しています。

 ダビデは、正しい人とは、先ず、神を愛し、神を畏れかしこみ、神ヤハウェ(主)にのみ祈りを献げ、礼拝するものである、と捉えていたのではないかと思います。
神を愛し、神を信じているものは、神のおことばを守りますから、意志的に悪い行いをするということはないでしょう。

 新約(新契約)の時代にあって、正しい人(義人)とはどのような人を言うのでしょう。
口語訳のローマ人への手紙3章には次のように記されています。
“20
なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
21
しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
22
それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
23
すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
24
彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
25
神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、
26
それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。

 新契約において、義人(正しい人)とは、イエス・キリストを信じた人、すなわちイエス様を心にお迎えした人のことです。
多くのクリスチャンが、私は義人ではない、と言います。
しかし、神の法廷にあっては、義人であると判断されるのです。
それは、その人が、イエス様を心にお迎えしたからです。
そのような人に対して、1コリント130は次のように述べています。
フランシスコ会訳は、 神のお陰で、あなた方はキリス ト・イエスと一致しているのです。このキリスト・イエスは、わたしたちにとって神からの知恵、つまり、わたしたちを義とし、聖なるものとさせ、また、罪から贖う方となられたのです。”と訳し、
2017
は、 ・・、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。と訳しています。

 自分自身の一言一言の言葉や一つ一つの行動が義人としてふさわしい、という状態であれば、それは素晴らしいことですが、キリスト者は信仰によって義とされたのです。主と共に歩んでいれば、言動は主が矯正していってくださいますし、気がついたら変えられていたということもあるのです(1ヨハネ17)。
まず第一に大切なことは、父なる神様が、イエス様を信じた人を義人(正しい人)と認めてくださった、ということを100%認めること(信じること、受け入れること)です。
そうしないと、神様を嘘つきとしてしまうことになります。
「義人の祈りは、大いに力があ」る(ヤコブ516・口語訳)のですから、神様が与えてくださった御言葉を100%信じないことは大損です。
祈りが聞かれる条件として、神の御心に従った祈り、ということも非常に大切です(1ヨハネ514)。

 イエス様によって贖われた義人(正しい人)は、三一の主なる神様を愛し、神様に従います。従う、と言っても杓子定規的なものではありません。一人一人に対して御聖霊が導いてくださるので、その導きに従って行くというものです。御聖霊の導きは一人一人に対して異なるのです。ただし同じ場合もあります。

 いずれにしても、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、まことにあなたは、正しい者を祝福し、大盾のようにいつくしみでおおってくださいます。2017)という御言葉は有難いですね。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
今日もあなたの慈しみに覆われて歩ませて頂けますことを感謝します。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

12/20
は、多忙の故、夜には、心臓部が苦しく、また呼吸をするのも苦しいような感じになりました。必要な薬は全部服用しているにもかかわらず改善しない(薬石効無し)ので、御父に御子の名によって癒してくださるようにと祈ったところ、夕食を食べることが出来ました。ハレルヤ!
12/21
には歯肉が膨れて来て違和感を覚えていましたが、寝てから痛みで目が覚めてしまいました。起きたくなかったので、またイエス様の御名で御父に祈ったところ、起床時には腫れが引いており、痛みもなくなっていました。この腫れは歯槽膿漏から来るもので、その歯肉の中に抗菌薬を注入すれば、歯科的には癒すことができます。以前はそのようにしてもらっていました。
慈しみ深い主の御名を崇めます。
体調が良いというような日は1日もありませんが、神ヤハウェ(主)が地上においてくださっておられる間は大丈夫です。本当はすぐにでも天国に行った方が楽ですが、まだ地上での任務があるのです(あるのでしょう)。
パウロは言いました。「20 私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。21 私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。22 しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。23 私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。」(ピリピ1章・2017)と。

2021年12月26日 (日)

主が来られるのはノアの時代のようなとき

 創世記6:11-18には次のように記されています。
“11 地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。
12 神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。
13 神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ようとしている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。見よ、わたしは彼らを地とともに滅ぼし去る。
14 あなたは自分のために、ゴフェルの木で箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外にタールを塗りなさい。
15 それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。幅は五十キュビト。高さは三十キュビト。
16 箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内に天窓を仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、箱舟を一階と二階と三階に分けなさい。
17 わたしは、今、いのちの息のあるすべての肉なるものを天の下から滅ぼし去るために、地上に大水を、大洪水をもたらそうとしている。地上のすべてのものは死に絶える。
18 しかし、わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは、息子たち、妻、それに息子たちの妻とともに箱舟に入りなさい。”(2017)とあります。
 
 イエス様は次のように語られました。
「37 人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。38 洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。39 洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。」(マタイ24章・2017)と。

 37節のギリシア語聖書(TR)を訳すと、“人の子の来臨はノアの日のようでしょう。”となります。

 37節を、新共同訳、聖書協会共同訳は、「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。」と訳しています。

 さて、ノアの時代とは、神様から見るとどのような時代であったのでしょうか?
11.12節には、“地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。”(2017)と記されています。

 聖書完成後においては、神様の基準は聖書に明らかにされています。
現代はどうでしょうか?
かつては聖書を拠り所とした国々でさえ、聖書離れをしている有様です。

 聖書に書かれている神の裁きを俯瞰すると、大きな裁きには、一定の法則があるように思えます。

 第一にあげられるのは、神であるヤハウェ(主)を神としないことです。
神であるヤハウェ(主)を神としないことは、神様が語られた御言葉に聞き従うということをしない、というところに通じます。
即ち、神を畏れ敬うことをしないで、神をいないかのように扱うのです。
これは他人ごとではなく、救われる前の私自身がそのような者でした。
これは神に対して高慢のかぎりを尽くしている状態です。
それ故、世が裁かれる前に、主に救って頂いたことを主にとても感謝しています。

 最初に裁かれた人たちは、アダムとエバでした(創世記3章)。
サタンの言葉をヤハウェ(主)の言葉よりも重く捉えたのです。
この時アダムとエバは、神第一ではなく、サタン第一となったのでした。

 次に、今日の聖句箇所の様に、ノアの時代の人々のことが記されています。
「地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。」とあります。
「神の前に」という語が重要だと思います。

 次にヤハウェ(主)が裁かれた事件は、創世記11章の出来事です。
ヤハウェ(主)が人を造りました。
創世記2:7には、“神である主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。”(2017)と記されています。
 創世記11:4には、「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」(2017)と記されています。
人類がこぞって神ヤハウェに対して反逆を始めたのです。
それに対する神ヤハウェの裁きは、1原語から多言語にしてしまう、ということでした。

 バベルの塔の次は、ロトの時代のソドムとゴモラです(創世記19章)。
ソドムからソドミーという語が生まれたようです。
現代では、多くの国で、ソドミーは罪とされることなく保護されています。
神ヤハウェは、どのように対処なさるでしょうか。→ローマ1:18-32

 モーセの時代、エジプトの王ファラオは、ヤハウェ(主)に対抗した故に、数々の災害を受け、最後には殺されました(出エジプト記7-14章)。

 その後も様々な国民に対して、神ヤハウェの裁きはいくつも執行されてきましたが、
神と契約を結び、神の民とされたイスラエルに対する裁きについての話をします。
イスラエルに対する裁きには、大小さまざまありますが、特に大きなものを取り上げます。
北イスラエル王国は、神ヤハウェ(主)との契約を破り、神ヤハウェ(主)の御言葉をないがしろにして、偶像礼拝にふけり、アッシリアに捕囚となりました。
南イスラエル王国(ユダ王国)も、北イスラエル王国のまねをし、バビロンに捕囚となりました。

 以上に共通しているのは、ヤハウェ(主)に対する不敬虔です。
ユダ書は不敬虔な者はさばかれるよ、と述べています。

 さて、ノアの時代、ノアとその家族、合計8人以外は不敬虔な人々でした。
それでも、神ヤハウェ(主)は、裁きを下すぞ、というようなことを言ってから120年の猶予を持たれたのです。

 ノアの箱舟は、新約時代のイエス・キリストの型です。
イエス・キリストの中に入った人は、神ヤハウェの裁きにあうことなく守られるのです。
唯物論でしか考えることの出来ない人は、この考えを受け入れることは出来ないでしょう。
しかし、1コリント1:30には、“その神によってこそ、あなたがた〔キリストを信じた者、即ちキリストを心にお迎えした者(筆者挿入)〕はキリスト・イエスのうちに在る者なのである。”(岩波訳)とあります。

 ノアとその家族が箱舟に入った後に、神様が箱舟の戸を閉めました(創世記7:16)。それから水の裁きが始まったのです。
地からは水が噴出し、天からは超豪雨が降り注いだのです。なんと40日間でした。(創世記7:11.12)そして、地上は見えなくなりました(創世記7:19.20)。

 恵みの時代、すなわちキリストの復活から、キリストの空中再臨までの間は、人となられた神イエス・キリスト様を信じるかどうかにかかっているのです。
イエス様の現れ(空中再臨)を持ち望んでいるキリスト者は、裁きの前に霊の体が与えられて、天に移されます。

 まだ、イエス様を心にお迎えしていない人は、イエス様を心にお迎えしてください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<上記の文章の参考聖句>
 キリストの現れとそれを待ち望む者
“・・人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。”(ヘブル9:27.28・2017)

 霊の体に変えられるor霊の体が与えられる時
“終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たち〔キリストの現れの時にキリストを待ち望んでいる人達(筆者挿入)〕は変えられるのです。”(1コリント15:52・2017)

 携挙(天に引き上げられること)について
“14 イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。
15 私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。
16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり
17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”

 神の御子イエス・キリストに対する信、不信と、神の裁き、復活、永遠のいのち、との関係
“21 父〔父なる神(筆者挿入)〕が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子〔御子イエス・キリスト(筆者挿入)〕もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。
22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました
23 それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。
24 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています
25 まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます〔(ただ聞くばかりでなく、 ほんとうに)聞き従う者(だけ)が生きる。(塚本訳)〕
26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。
27 また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子〔ダニエル7:13(筆者挿入)〕だからです。
28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。
29 そのとき、善を行った者〔イエス・キリストを信じ、従った者{ヨハネ3:18}(筆者挿入)〕はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者〔イエス・キリストを憎みイエス・キリストに来ない者{ヨハネ3:20}(筆者挿入)〕はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。
30 わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。”(ヨハネ5章・2017)

2021年12月25日 (土)

約束された救い主、主権者

 イザヤ96.7には、
“6
ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
7
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の熱心がこれを成し遂げる。2017)と記されています。
(新改訳、口語訳、文語訳、リビングバイブルは、上記の節ですが、新共同訳、岩波訳、フランシスコ会訳、聖書協会共同訳は、5.6節となっています。)

 6節aには、“ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。”とあります。
「ひとりのみどり子」とは誰を指しての預言でしょうか?
「ひとりのみどり子」とは、イエス・キリストのことです。

 イザヤ9:1.2には次のように記されています。
“しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。”(2017)とあります。

 「大きな光」と記されていますが、それはイエス・キリストのことを言っています。
イエス・キリストの誕生はベツレヘムでした。そして乳児期に一時エジプトに滞在しました。その後、イエス・キリストは、ガリラヤ地方のナザレ村で公生涯に入るまでの間を過ごし、また公生涯に入った後もガリラヤ地方で多くの御言葉を語り、御業を行ないました。即ち、死の陰の地に住んでいた者たちの上に光をもたらしたのです。
滅びゆく者たちにいのちの光である福音を解いたのです。

 6節cに、“主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。”とあります。
「主権はその肩にあり」と訳されている内の「主権」のヘブライ語原語は「ミスラー」で、帝国、統治、支配、・・・等々の意があります。
「肩」と訳されているヘブライ語原語は「シェケム」で、首、肩の意があります。
神の国の行政の主権者はイエス・キリストです。

 また、イエス・キリストは、「不思議な助言者」(新改訳)です。
「不思議な」と訳されている語のヘブライ語原語は「ぺーレー」で、奇跡的な、驚くべき、不思議な等の意があります。

 更にイエス・キリストは、「力ある神」です。
イエス・キリストは、父なる神のひとり子の御子です。
肉体を纏う前は、何と呼ばれていたのでしょう?
神は本質において唯一であり、位格において三であるので、三位一体なのです。
参考箇所として二聖句をあげておきます。
申命記6:4には、“聞け、イスラエルよ。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私たちの神。主は〔ヤハウェ(筆者挿入)〕唯一である。”(2017)とあります。
マタイ28:19には、“ 彼らに父と子と聖霊の名〔単数形(筆者挿入)〕によって洗礼を授け”(新共同訳)とあります。
「名」が単数形であることが分かり易いように、NKJV訳を下記します。
“ baptizing them in the name of the Father and of the Son and of the Holy Spirit”とあります。

 イエス・キリストは、「永遠の父」とも記されています。
大患難時代の最終局の預言がイザヤ63章に記されています。
イザヤ63:1-6には、
“ 1 「エドムから来るこの方はだれだろう。ボツラから深紅の衣を着て来る方は。その装いには威光があり、大いなる力をもって進んで来る。」「わたしは正義をもって語り、救いをもたらす大いなる者。」
2 「なぜ、あなたの装いは赤く、衣はぶどう踏みをする者のようなのですか。」
3 「わたしはひとりでぶどう踏みをした。諸国の民のうちで、事をともにする者はだれもいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。彼らの血の滴りはわたしの衣にはねかかり、わたしの装いをすっかり汚してしまった。
4 復讐の日がわたしの心のうちにあり、わたしの贖いの年が来たからだ。
5 見回しても、助ける者はだれもなく、支える者がだれもいないことに唖然とした。それで、わたしの腕がわたしの救いとなり、わたしの憤り、それがわたしの支えとなった。
6 わたしは怒って諸国の民を踏みつけ、わたしの憤りをもって彼らを酔わせ、彼らの血の滴りを地に流れさせた。」”(2017)と記され、
 黙示録19:11-16には次のように記されています。
“ 11 また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。
12 その目は燃える炎のようであり、その頭には多くの王冠があり、ご自分のほかはだれも知らない名が記されていた。
13 その方は血に染まった衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。
14 天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。
15 この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。
16 その衣と、もものところには、「王の王、主の主」という名が記されていた。”(2017)とあります。

 イザヤ63章に戻りますが、裁きをなさり、贖い主でもあるイエス・キリスト様を指して、
“16 まことに、あなたは私たちの父です。たとえ、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたは私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから「私たちの贖い主」。
17 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ。なぜあなたは私たちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心を頑なにして、あなたを恐れなくされるのですか。あなたのしもべたち、あなたのゆずりの地の部族のために、どうかお帰りください。”(2017)と記されています。
 キリスト・イエス様は、17節の預言の御言葉にあるように、キリストの千年王国の王としてエルサレムで統治なさるのです。
今の時代の私たちに対して、キリスト・イエス様は、霊的な統治をなさってくださっておられます。

 また、御父と御子の関係について、イエス様は、「わたしと父とは一つ〔「同一の本質」(欄外注)〕です。」(ヨハネ10:30・2017)と語られました。
またイエス様は、「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」(ヨハネ14:10・2017)とも語られました。

 イエス・キリストは、「平和の君」とも呼ばれます(6)。
キリスト・イエス様は、私たちに平安と平和をもたらしてくださいます。
「平和の君」と訳された語のヘブライ語原語は「サル(トップの人、君主)・シャローム(安全な、平和、平安、・・・)」です。

 イエス様は、恵みの時代にあって、「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27・2017)と語られ、キリストの地上再臨によって、地上に平和をもたらすのです。そのときには、神の力を発揮されます。
その結果をイザヤ2:4bcは次のように預言しています。
“彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。”(2017)と記されています。

 イザヤ9:3-5節には、
“3 あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。
4 あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ。
5 まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。”(2017)と記されていますが、霊的には、恵みの時代に起きていることであり、イスラエル民族に対しては、キリストの地上再臨からキリストの千年王国で見られる光景です。

 7節には、“その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の熱心がこれを成し遂げる。”(2017)と記され、現実にキリストの千年王国で起こる出来事です。

 イザヤ46:10には、「わたしは初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り、わたしは望むことをすべて実行する。」(新共同訳)と記され、
イザヤ55章には、 
“8 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。
9 天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。
10 雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。
11 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。”(新共同訳)記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
偉大なる三一の神の御名に信頼し続けて歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月24日 (金)

いと高き所には栄光、神にあれ。地には平和(平安)神に喜ばれる人にあれ

 ルカ28-21には次のように記されています。
“8
さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
9
すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
11
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12
あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
13
すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
14
「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」
15
御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」
16
そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。
17
それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。
18
聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。
19
しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
20
羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
21
八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子の名はイエスとつけられた。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。2017)とあります。

 イエス様の誕生について、御使いは、何故、羊飼いたちに遣わされたのでしょうか?
この羊飼いたちは、神殿でささげられる罪のためのいけにえとしての羊を飼育していたから、という推測がバイブルナビにあります。
 バイブルナビは次のように記しています。
神は、御子についての知らせを明らかにし続けたが、それは私たちが予想したような人にではなかった。イエスの誕生は、野の羊飼いに知らされたと、ルカは報告している。彼らは、罪の赦しのために行われる、神殿でのいけにえを献げる儀式のために子羊を供給する羊飼いであっただろう。ここで御使いは、羊飼いに神の子羊の所に行くよう勧めた。そのお方は、永遠にこの世の罪を取り除く。とあります。

 イエス様が公生涯に入られるとき&入られたとき、イエスが神の子羊であることを証ししたのがバプテスマのヨハネでした。
 ヨハネ129-34には次のように記されています。
その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」
そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。
私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』
私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」2017)とあります。

 今から約2000年前の話です。
夜空の光は、晴れていたとしても月や星の光しかなかったことでしょう。
羊飼いたちは、野宿をしながら、羊の夜番をしていたのです(8)。
この夜は、今までの生涯において経験したことのないようなことが起きました。
彼らのところに御使い(単数形)が来、主の栄光が周りを照らしたのです(9)。即ちパーッと明るくなったのです。
羊飼いたちの反応が記されている箇所の原語の文章を見ると、とてもとても驚き恐れた、というように訳せると思います。そのくらいビックリする出来事であったのです。

 その御使い(単数)は次のように言いました。
「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリスト〔「油注がれた者」、「メシア」の意(筆者挿入)〕です。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」(10-12)と。
おそらく、この羊飼いたちは、救い主を待ち望んでいた人たちであったのだろうと思います。
ヨハネ38に、「風〔ギリシア語原語は「プニューマ」、「プニューマ」には「霊」の意もあります(筆者挿入)〕は思いのままに吹く。」と記されています。
「(神の)霊は思うところに行く」ということであろうと思います。
興味深いのは、「霊は思いのままに〔自分の思いに従って(筆者挿入)〕息吹く」とも取れるのではないかと思うのです。1コリント123には、「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』ということは出来ません。」(2017)と記されています。

 話を元に戻します。
羊飼いたちは、一人の天使の出現に驚き、天使の言葉にビックリしていましたが、更に仰天するようなことが羊飼いたちに起きたのです。
一人の伝令の御使いの言葉が終わるとすぐに、その御使いと一緒に非常にたくさんの天使たちが現れて神を賛美したのです。
「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(14)と。
「平和」と訳されているギリシア語の原語は「イーレーネー」で、平和、平安、幸運、繁栄の意があります。
「みこころにかなう人々にあるように。」の原語の箇所を直訳すると、「神に喜ばれる人にあれ」(聖書協会共同訳欄外注)、「神に喜ばれる人にあるように」ということになります。
キリスト者に対して、イエス様は、平和のうちに暮らせるとは言いませんでしたが、「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」(ヨハネ14272017)とは言われました。またイエス様は、山上の垂訓の中で八福の幸いを語っておられます。
天使たちの賛美は、「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平安、幸いが、神に喜ばれる人にあるように。」というものであったのでしょう。

 15-21節をリビングバイブルは次のように意訳しています。
“15
天使の大軍が天に帰ると、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださった、すばらしい出来事を見てこようじゃないか」と、互いに言い合いました。
16
羊飼いたちは息せき切って町まで駆けて行き、ようやくヨセフとマリヤとを捜しあてました。飼葉おけには、幼子(おさなご)が寝ていました。
17
何もかも御使いの言ったとおりです。羊飼いたちはこのことをほかの人に話して聞かせました。
18
それを聞いた人々はみなひどく驚きましたが、
19
マリヤはこれらのことをすべて心に納めて思い巡らしていました。
20
羊飼いたちは、天使が語った通り幼子に会えたので、神を賛美しながら帰って行きました。
21
八日たち、割礼を行なう日になり、その子は、母の胎内に宿る前から天使に示されたとおり、「イエス」と名づけられました。とあります。

 「イエス」と日本では表記しますが、ギリシア語では「イエースス」になります。
しかし、天使はどう語ったのでしょう。
恐らくヘブル語で、「イェシュア」と名づけなさい、と語ったのでしょう。
この名前は、「ヤハウェ(主)は救う」という意です。
マタイ121には、「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(2017)という主の使いの言葉が記されています。
ユダヤ人であれば、イェシュアと聞けば、救い主、と理解できたことでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名が崇められますように。
あなたの御名をほめたたえます。
イエス様を与えて下さり感謝します。
あなたに喜ばれる歩みをし続ける者として頂けますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月23日 (木)

マリアとガブリエル

 ルカ1:26-38を2017は次のように記しています。
“26 さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。
27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。
28 御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
29 しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
30 すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
31 見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
32 その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」
34 マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」
35 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。
36 見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。
37 神にとって不可能なことは何もありません。」
38 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。”とあります。

 26節には、“さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。”と記されています。
 御使い(天使)ガブリエルは、神から人へと御言葉を伝える天使として聖書に登場しています。
天使ガブリエルの名前が記されている聖書の箇所には、次のような箇所があります。
 ダニエル8:16-26の箇所:神がダニエルに夢を見させましたが、ダニエルには解き明かすことが出来ませんでした。そこで、その夢の意味をダニエルに教えるために遣わされたのが天使ガブリエルです。
 ダニエル9:21-27の箇所:神がエレミヤに与えられた70年の預言に関して、ダニエルは断食して祈っていました。ダニエルのこの時の祈りは、国家を代表して悔い改め、赦しを願い、かつ憐れみを求めるような祈りでした。
ダニエルがまだ祈り終わる前に、神はガブリエルを遣わし、1年を360日として見る70年ではなく、1週を7年として見る70週の啓示をダニエルに与えたのです。
 ルカ1:5-23の箇所:天使ガブリエルは、妊娠不可能となった年齢に達している不妊の女性エリサベツの夫ザカリヤに遣わされ、神からの御言葉を告げました。そして生まれてくる子の名前まで決定されていることを教えたのです。この不妊の夫婦から生まれた子はヨハネ、後にバプテスマのヨハネと言われる人でした。このヨハネは、旧約聖書に預言されていた人でした。
 次に天使ガブリエルが登場する場面は、今日の箇所、ルカ1:26-38です。

 ガブリエルが語った処女懐妊という話に驚く人が多いですが、神は全能の神ですから、驚く必要も疑う必要もありません。更に、ルカの福音書を書いたのはルカという名の医者です。

 ガブリエルは言いました。
「神にとって不可能なことは何もありません。」(ルカ1:37・2017)と。
聖書協会共同訳は、「神に出来ないことは何一つない。」と訳しています。
ギリシア語聖書(TR)を読むと、文語訳は、直訳しているのが分かります。
「それ神の言(ことば)には能(あた)はぬ所なし」(文語訳)
「ことば」と訳されている語のギリシア語原語は「レーマ」で、語りだされた即自的なことばの意です。ロゴスも言葉の意ですが、どちらかというと恒常的な言葉の時に用います。しかし、ルカ7:7では、百人隊長が、即自的なことばの意でロゴスを使っています。
 新改訳2017は、「神にとって不可能なことは何もありません。」と訳すと共に、欄外注に、“「こと」の箇所の説明として、「語られたことば」あるいは、「語られた事柄」の意”と記しています。
ルカの福音書は、ギリシア語で記されていますが、ガブリエルがマリアに語ったのはギリシア語ではなかったことでしょう。
「ことば」を、ヘブル語では「ダーバール」と言い、言葉の他に事柄、・・等の意もあります。

 いづれにしても、神様から御言葉を頂くということはすごいことです。
「それ神の言(ことば)には能(あた)はぬ所なし」ということなのですから。
但し、神様から頂いたのではなく、自分勝手に持って来たものではだめです。

 27節に、“この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。”とあります。
結婚年齢に関して、最近発売されたバイブルナビには、次のような記述があります。
“当時のユダヤの文化では、少女は子供が産めるようになると一人前の女性と見なされるようになり、それはたいてい13か14歳だった。そうなると女性は嫁げるようになり、結婚する1年前に婚約した。”と記されています。

 御使いガブリエルは、マリアに、
「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(28)と語り、続けて、
「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」(30-33)と語ったのです。

 マリアはガブリエルの言葉にビックリしました。それでマリアは、
「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」と、ガブリエルに言ったのです(34)。

 マリアに子どもができたら、周りの者たちから、マリアは不倫したと思われてしまします。婚約も破談になるかも知れません。
実際、婚約者ヨセフの考えたことが次のように記されています。
“夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。”(マタイ1:19)・2017とあります。

 律法には、“ある男と婚約中の処女の娘がいて、ほかの男が町で彼女を見かけて一緒に寝た場合、あなたがたはその二人をその町の門のところに連れ出し、石を投げて殺さなければならない。その女は町の中にいながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻を辱めたからである。こうして、あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。”(申命記22:23.24・2017)と記されています。

 ユダヤの倫理道徳的背景を考えると、マリアはガブリエルからとんでもないことを言われたのです。
マリアのお腹が大きくなっていくにつれて、マリアは、周囲の者から、人々からどのように言われ、扱われるのか、想像するだけで気が遠くなりそうです。

 しかし、マリアは、ガブリエルとのやり取りの中で、ガブリエルの言葉が神からのものであることを悟ったのです。
マリアは、この世のことを、この世の人たちの目を、この世の人たちが発するであろう言葉を脇に置いて、心を神のみに向け、「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(38)と御使いガブリエルに答えたのでした。

 神である主の御用を果たした御使いガブリエルは、マリアから去って行きました。
一方マリアは、エリサベツの許へと行きました。
聖霊に満たされたエリサベツは、マリアに、
「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。あなたのあいさつの声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子ども〔バプテスマのヨハネ(筆者挿入)〕が喜んで躍りました。主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」(ルカ1:42-45・2017)と言ったのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
主が与えてくださる御言葉を正しく聞き分けることができますように。
また、主が語られた御言葉を疑うことなく信じて歩み続ける者であらせてくださいますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月22日 (水)

主と共に歩み続けているうちに場所が変わる

 創世記5:21-24には、
“21 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。
22 エノクはメトシェラを生んでから三百年、神とともに歩み、息子たち、娘たちを生んだ。
23 エノクの全生涯は三百六十五年であった。
24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。”(2017)と記されています。

 エノクは、誕生してから65年間というもの、神と共に歩んではいませんでした。
メトシェラが与えられた後、エノクは神と共に歩むようになりました。
神と共に歩むことを始めてからの、エノクの地上生涯の期間は300年でしたが、地上で死ぬことがなく、気がついたら天国におり、その後も天国で主と共に生活しているのです。

 ヘブライ人への手紙(ヘブル)11:5に、“信仰によって、エノクは死を経験することなく天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証しされていたからです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 エノクは、神であるヤハウェ(主)を畏れ敬い、ヤハウェ(主)に信頼して歩んだのです。
エノクのような人をヤハウェ(主)は喜ぶのです。
エノクは死を経験することなく天に移されました。

 イエス様の公生涯の期間中、父なる神に喜ばれていた人たちがいました。
最後の晩餐の時のこと、イエス様は次のように言われたり、祈ったりされました。
「それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。」(ヨハネ16:27・新改訳第三版)とイエス様は弟子たちに語りました。

 弟子たちは、主イエス様を愛し、主イエス様が父なる神のひとり子であることを信じ、3年半の間、イエス様に従い続けたのです。その結果、イエス様から、弟子であるあなたがたは御父ご自身に愛されている人たちです、と語られたのです。

 このようなイエス様の御言葉を聞くと、11弟子ほどではないかもしれないけれど、自分も頑張ったよ、と思う人がいるかも知れません。
しかし、イエス様は、御父への祈りの中で次のように祈っています。
「彼らとともにいたとき、わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためでした。」(ヨハネ17:12・2017)と。

 ガラテヤ2:20cを聖書協会共同訳は、“私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。”と訳しています。

 聖書の預言と世の動きを見ていると、段々と、この世の終わり(人が人を統治する世界の終わり)に近づいているように私には思えます。
マタイ24章orルカ19章orマルコ13章には、この世の終わりの預言と、紀元1世紀の神殿崩壊及びユダヤ人追放の両方が預言されていますが、それらを読み分けると共に、またエゼキエル書やダニエル書、黙示録、テサロニケ人への手紙、コリントの信徒への手紙、またその他の旧新約預言等々には、終末預言が記されています。

 この世の流れに思いや感情を奪われることなく、いつも主と共に歩むことが大切であることを教えられます。
主を愛し、主に信頼し、日々、聖書を読み、事ごとに祈り、主と共に歩み続けることの重要性を覚えます。
そのようにしている人は、ある日突然、肉の体を霊の体に変えられて、天に移されるのです(1コリント15:52、1テサロニケ4:16.17)。

 主と共に歩んだキリスト者で、その前(キリストの空中再臨前)に死んだ人はどうなるのでしょう。
イエス様は言われました。
「生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11:26・2017)と。
イエス様は新生した人、すなわち「霊」を見ているのです。
肉体の状態に関係なく、本体が新生した霊である私たちは、永遠なのです。
もし、新生していて、キリストの空中再臨前に肉体の滅びた人は、キリストの空中再臨時に、霊の体が与えられます(1テサロニケ4:16)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
主を愛し、主に信頼し、日々、聖書を読み、事ごとに祈り、主と共に歩み続ける日々を送らせてくださいますように。
そのように歩めることはあなたが与えて下さる祝福です。
恵みの上に更に恵みを与えてくださる私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月21日 (火)

主はご自分の聖徒を特別に扱われる

  詩篇43を、
新改訳は、知れ。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は聞いてくださる。と訳し、
口語訳は、しかしあなたがたは知るがよい、主は神を敬う人をご自分のために聖別されたことを。主はわたしが呼ばわる時におききくださる。と訳し、
新共同訳は、主の慈しみに生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いてくださると知れ。と訳し、
聖書協会共同訳は、主は忠実な人を選び、呼びかけを聞いてくださることを知れ。と訳し、
フランシスコ会訳は、しかし、知るがよい、主が忠実な者のために不思議を行われることを。主はわたしが呼び求めるとき、耳を傾けてくださる。と訳しています。
(新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は、詩篇44になります)

 「聖徒」(新改訳)、「(神を)敬う(人)」(口語訳、文語訳)、「(主の)慈しみに生きる(人)」(新共同訳)、「忠実な(人or者)」(聖書協会共同訳、フランシスコ会訳)と訳されている語のヘブライ語原語は、「ハーシード」で、Strong辞書によると、kind(優しい、親切な、思いやりのある)が原義で、宗教的には、pious(信心深い、敬虔な)の意があり、聖人、聖徒、信心深い(人)、敬虔な(人)、善良な、親切な、優しい、高潔な、聖人のような(人)、信仰に身をささげた(人)、慈悲深い、情けのある等の意があります。

 「特別に扱われるのだ」(新改訳)、「聖別されたことを」(口語訳)、「見分けて」(新共同訳)、「選び」(聖書協会共同訳、フランシスコ会訳)と訳された語のヘブライ語原語は、「パーラー」で、Strong 辞書によると、to distinguish{逐語的にも比喩的にも(区別すること)}という意であり、put a difference(区別or差別 を置く)、 show marvellous{不思議な(こと)or素晴らしい(こと)or奇跡 を見せる}、 separate(分ける、区別する)、set apart(取り除けておく、別にしておく、区別する)、 sever(分ける)、 make wonderfully(素晴らしくつくる)等の意があります。

 リビングバイブル訳は、新約的に意訳して次のように訳しています。
“人の子らよ、よく心に留めておきなさい。主は救われた人々を、ご自分のためにえり分けました。だから、私の声に耳を傾けて、答えてくださるのです。”と記しています。

 新改訳は、「主は聖徒を特別に扱われる」と訳していますが、「聖徒」とは何でしょうか。
 「聖徒」について聖書辞典は次のようにまとめてくれています。
“ せいと 聖徒 旧約において聖徒と訳されるヘブル語は「ケドーシーム」である。この語は形容詞カドーシュからきており、その語の語根qdsの意味は「切る」「分ける」であり、神の用のために俗的な人々または物から分離することを強調することばである。申33:3の「聖徒」は「主に聖別された者」という意味であり、「ヤハウェ礼拝のために聖別されたイスラエル」を指している(参照 詩16:3,34:9,ダニ8:24)。また、アラム語の「カッディーシーン」も同義で、「いと高き方の聖徒」という表現によってイスラエルを指している(ダニ7:18‐27)。さらに,ヘブル語のハーシードゥは「敬虔な」という意味で、ハシーディーム〔ハーシードの複数形(筆者挿入)〕の形で多く「聖徒たち」と訳され、主として詩篇に用いられている(詩30:4,31:23,50:5,52:9等)。また、この語は「恵み深い者」(詩18:25)とも訳されることばで、神のあわれみ(〈ヘ〉ヘセドゥ)の概念に基づく敬虔に強調点がある。すなわち,それは人格の優秀さにではなく、神の選びと恵みを賜わった者という点に強調がおかれている。特に、マカベア時代〔マカベア戦争はB.C.166-142年(筆者挿入)〕には、ハシーディームはユダヤのギリシヤ化勢力に反抗した敬虔者の一団を指すことばとなった。
 新約において「聖徒」と訳されている〈ギ〉ハギオイは、「聖なる者」「きよめ分たれた者」という意味を持つ。マタ27:52は新約以前の聖徒を指しているが、他はすべてキリスト者を指している(使9:13,32,41,26:10,ロマ1:7,8:27,2コリ1:1,13:12, エペ1:1,3:8等)。それは、クリスチャン、兄弟と同意語である(コロ1:2)。
 聖徒は主イエスに対しては弟子、同信の友に対しては兄弟である。聖徒とは、イエス・キリストの贖いによって「世」(罪と死の律法)から分離され、聖別された者という意味で、教会すなわち選びの民の中に加えられた者としてこの名が与えられているのである。このように、聖徒はその身分を神の召しによって得たものであって(ロマ1:7)、通常立派な人を指して言う聖人君子、完全無欠な人とは異なる。聖徒は、イエス・キリストの十字架の血によって罪をきよめられ、その血に免じて罪がないと見なされ、神の御用のために世から選び分たれた「罪赦された罪人たち」である。したがって、罪深い肉的生活を送っていたコリント教会の兄弟たちにすら、パウロは聖徒と呼びかけている(1コリ1:2)。とはいえ、もちろん、恵みにより聖徒とされた者には聖徒にふさわしく生きることが求められている(エペ5:3‐4)”と記しています。

 詩篇4:3の前半部分には、「知れ。主はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。」(新改訳)とありましたが、
後半部分には、「私が呼ぶとき主は聞いてくださる。」(新改訳)と記されています。

 キリスト者が主を呼ぶとき(主に祈るとき)、主は聞いてくださいますが、主は祈りの内容を聞かれた後、祈った通りに応えてくださる場合と、祈った祈りとは異なる答えを下さる場合とがあります。
主の応えは、主の義と愛とご計画or御旨に関係するのではないかと思います。
使徒ヨハネは、「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださる」(1ヨハネ5142017)と記しています。
また、ヨハネの福音書では、イエス様が次のように語られたと記されています。
「・・わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。」(ヨハネ1413.142017)と。
「私の名によって」と訳されているギリシア語原語を英訳すると、“in my name”となります。ですから、「主ご自身の中で」「主の御旨の中で」「主の御旨にかなって」と捉えることが出来るのではないかと思います。
いつも主のみ旨に叶ったお祈りをすることが出来たら良いですね。
御聖霊が導いて下さる祈り、or主と一つとされている霊(1コリント617)が常に主を主としている場合の祈りであれば可能です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
いつも主の導きに従って祈ることができますよう整え導いてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月20日 (月)

悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

 マタイ5:4を文語訳は、「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。」とギリシア語聖書の語順に従って訳しています。
 2017は、「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」と訳しています。

 「悲しむ者」と訳されている語の原語の意味は、深く悲しむ、悲嘆に暮れるという意です。

 人はどのようなことを深く悲しむでしょうか。
子供を失ったこと
伴侶者を失ったこと
信じていた人から裏切られたこと
恋人と死に別れたこと
全財産を失ったこと
今まで積み上げてきたことを失ったこと
そのほか色々あることでしょう

 神であり人ともなられた主はどのようなことを深く悲しむのでしょうか?
私には、よく分かりませんが、一つ分かることがあります。
それは愛する者を失った時です。
イエス様は、ラザロの死に対して「涙を流された」(ヨハネ11:35)のです。
この話の一部始終はヨハネ11:1-44に記されています。

 また次のような記述もあります。
マタイ23:37-39には、
「37 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。
38 見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。
39 わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」(2017)と記されています。

 私が参照しているギリシア語聖書は2017の訳の様に、37節の冒頭は、「エルサレム、エルサレム」となっています。同様に訳している日本語訳聖書には、新共同訳、聖書協会共同訳、岩波訳、フランシスコ会訳等があります。
 一方、「ああエルサレム、エルサレム」と訳している日本語訳聖書には、口語訳、文語訳、新改訳第三版、リビングバイブル訳、塚本訳、前田訳等があります。

 私には確信はありませんが、イエス様の心情としては、「ああエルサレム、エルサレム」という悲嘆であったのではないかと思います。
魂が滅びていくことを思っての悲嘆ではなかったのかな、と思います。
イエス様がそうであったとしたら、御父も同じです。
御父と御子の本質は同一だからです。

 神様は義なるお方ですから、必ず裁きをなさいます。
しかし神様は同時に愛のお方ですから、裁かれて滅びゆく者に対して深く悲しむのです。
子供を深く愛している親の場合も同じような場合があるということを見聞きしたことがあります。
キリスト者であれば、その人がかかわった人が多ければ多い程、同じようなことを経験しているでしょう。
裁きがどの様なものかを知っており、真剣に様々な手を尽くして福音を伝えたにもかかわらず、イエス様を信じてくれない人たちに対して、「ああ、」という悲しみの思いを持つことでしょう。

 キリスト者は、喜びと悲しみが同居する人たちでしょう。
主との良き関わりにおいては、大いに喜び、滅びゆくかも知れない魂に対しては悲しみを覚えることでしょう。

 しかし、この件については、解決していただける時が来ます。
イザヤ65:17-18aには、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。」(2017)とあり、
 黙示録21:1-4には、“わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。
更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」”(新共同訳)と記されています。

 地上生活の様々な悲しみは、その人が主に心を向ければor向け続けていれば、地上にいる間に、主が、悲しみを取り去ってくださることでしょう。あるいは、悲しみを喜びに変えてくださることでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは如何なる悲しみをも取り除いてくださるお方ですから御名を崇めて感謝します。
しかし、神様の悲しみに対して私はなすべきすべがありません。
せいぜい、神様の喜びを喜びとし、神様の悲しみを悲しく思う、ということを極めてわずかばかり共有させて頂くだけです。
一人の人が救われても、天では大きな喜びが沸き起こります。
私たちの歩みを通して救われる人がおこされていきますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ルカ15:7“あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。”(2017)

2021年12月19日 (日)

主の忠告を受け入れない人は身を滅ぼす/主の仰せに従う人は安らかである

 箴言1章に次のような聖句があります。
23 わたしの叱責に立ち返れ。・・・。
24
わたしが呼んだのに、おまえたちは拒んだ。手を差し伸べたのに、耳を傾ける者はなかった。
25
おまえたちはわたしの忠告をすべてなおざりにし、わたしの叱責を一つも受け入れなかった。
26
わたしも、おまえたちが災難にあうときに笑い、恐怖がおまえたちを襲うとき、あざ笑う。
27
恐怖が嵐のようにおまえたちを襲うとき、災難がつむじ風のようにおまえたちに来るとき、苦難と苦悩がおまえたちを襲うとき、
28
そのとき、わたしを呼んでも、わたしは答えない。わたしを捜し求めても、見出すことはできない。
29
それは、彼らが知識を憎み、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れることを選ばず、
30
わたしの忠告を受け入れようとせず、わたしの叱責をことごとく侮ったからだ。
31
それで、彼らは自分の行いの実を食らい、自分が企(たくら)んだことで腹を満たす。
32
浅はかな者の背信は自分を殺し、愚かな者の安心は自分を滅ぼす。
33
しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住み、わざわいを恐れることなく、安らかである。”(2017)と記されています。

23 わたしの叱責に立ち返れ。・・・。
24
わたしが呼んだのに、おまえたちは拒んだ。手を差し伸べたのに、耳を傾ける者はなかった。
25
おまえたちはわたしの忠告をすべてなおざりにし、わたしの叱責を一つも受け入れなかった。”
とヤハウェ(主)は言われますが、世の中には、「悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ115b1017)と言われても、ヤハウェ(主)の御言葉に従って信じる人はほんのわずかです。

 現代人は、聖書を信じていません。聖書の中の一部分は良いことが書いてあると認めますが、聖書のすべてを聖なる書、として認めることをしません。

 イエス様は、最後の晩餐の時に、「5 しかし今、わたしは、わたしを遣わされた方〔御子イエスの御父(筆者挿入)〕のもとに行こうとしています。/・・・。
7
・・、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
8
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
9
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
10
義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
11
さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」(ヨハネ16章抜粋・2017)と語られました。

 7節の、「・・・。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」というイエス様の御言葉を私の言葉で言い直すと、
「わたしイエスが、十字架上で、すべての人の罪の贖いを成し遂げ、そして死んだ後に葬られ、更に復活し、御父のもとに昇るということは、見えるところでは、わたしがあなたがたから去るということですが、それはあなたがたにとって益になるのです。わたしが昇天しなければ、あなたがたのところに助け主すなわち聖霊はおいでになりません。わたしが昇天し、御父の右の座に着座すれば、わたしはあなたがたのところに助け主、すなわち聖霊を遣わします。」となります。

 8-10節も小生の言葉で述べてみますと、
「助け主すなわち聖霊が来ると、罪について、義について、さばきについて、世(の人)に誤りを認めさせますor世(の人)の誤りを明らかになさいます。
わたしイエスを信じないことが罪である、ということを明らかにします。
(イエス・キリストを信じ、すなわち心にお迎えした者の罪はすべて赦されるのです。)
義というと、人は自分の義について考えがちですが、わたしキリストが義であるということです。わたしキリストが義であるということは、わたしが復活した故に、もはや地上では、十字架上で死んだイエスの死骸を誰も見ることのできない状態になっていること、それはわたしイエスを父なる神が義であると証印を押し、わたしが父のもとに昇るからです。
わたしキリストは、御父の右の座に着座します。そして、天地万物に対する権威を授けられます。
世の支配者である悪魔(サタン)は、イエスを十字架によって殺せると考え、それを実行しようとしますが、イエスが死んだ時、殺人者サタンは、神の子殺しの故に裁かれるのです。それ故、イエス・キリストの十字架刑が執行されたとき、サタンは裁かれたのです。(それ故、キリストの内に留まる者に対して、サタンは力を行使できません。神から生まれたもの(新生した霊)にサタンは触れることができないのです。)」
(多くの挿入語を入れて意訳してみました。)

 万物の根源であられる神様は、イエス様を信じる者をイエス様の内においてくださいました。イエス様を信じる者はイエス様にあって、神から赦され、義とされ、神のものへと聖別されたのです。

(それ故、・・・ )の箇所の聖句の元は、次の聖句です。
1
ヨハネ518に、神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。(新共同訳)とあります。
また、聖書協会共同訳は、次のように訳しています。
神から生まれた人〔生まれたのは「霊」(筆者挿入)〕は自分を守り、悪い者がその人に触れることはありません。とあります。
 ただし、肉体や魂は、新生したものではありません。肉体は古いままであり、魂は、救われましたが新しく生まれたわけではありません。

 話を元に戻します。
 23節を新共同訳は、「立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら、見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ、わたしの言葉を示そう。」と訳しています。
主の霊によらなければ、主の御言葉を正しく理解することが出来ません(1コリント211-13)。
 「立ち返って、わたしの懲らしめを受け入れるなら」は、「悔い改めて、主の御言葉に聞き従うなら」、と言い換えることも可能ではないかと思います。
 主が、「悔い改めて、わたしの言葉に聞き従うなら、見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ、わたしの言葉を示そう。」(23)と、有り難くも、お語りくださっているにもかかわらず、24.25節を読むと、主のお申し出を受け入れない者が多いようなのです。

 24.25節には次のように記されています。
わたしが呼んだのに、おまえたちは拒んだ。
手を差し伸べたのに、耳を傾ける者はなかった。
おまえたちはわたしの忠告をすべてなおざりにし、わたしの叱責を一つも受け入れなかった。とあります。

 26-32節では、主の御言葉に聞き従わない者が、どのような経過をたどるのか、主の御言葉に聞き従わない者に対して、主がどのような対応を取るのかを、主が語っておられます。次のように記されています。
“26
わたしも、おまえたちが災難にあうときに笑い、恐怖がおまえたちを襲うとき、あざ笑う。
27
恐怖が嵐のようにおまえたちを襲うとき、災難がつむじ風のようにおまえたちに来るとき、苦難と苦悩がおまえたちを襲うとき、
28
そのとき、わたしを呼んでも、わたしは答えない。わたしを捜し求めても、見出すことはできない。
29
それは、彼らが知識を憎み、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れることを選ばず、
30
わたしの忠告を受け入れようとせず、わたしの叱責をことごとく侮ったからだ。
31
それで、彼らは自分の行いの実を食らい、自分が企(たくら)んだことで腹を満たす。
32
浅はかな者の背信は自分を殺し、愚かな者の安心は自分を滅ぼす。とあります。

 ガラテヤ6:7には、「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」(新共同訳)とあり、
ローマ623には、「罪の報酬は死です。」(新改訳2017)と記されています。

 次の33節には、主に従う者の祝福について以下のように短くまとめられています。
“・・、わたしに聞き従う者は、安全に住み、わざわいを恐れることなく、安らかである。”とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたは、私たちを愛して、聖書の御言葉を与えてくださいました。
あなたを愛する愛を頂ければ、あなたの御言葉に従うことが難しくなくなっていきます。
益々、霊の父であるあなたを、そして、主であり花婿であるキリスト・イエス様を愛する愛を下さり、愛する故に御言葉に従う歩みをしていくことができますようお願いします。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月18日 (土)

主を見るか(主に信頼するか)、それとも主を見ずに人を見るか

 ダビデは、自分の子であるアブサロムから命を狙われたことがありました。
アブサロムは準備万端を整え、ダビデを殺して自分が王になろうとしたのです。
イスラエルの人々の心はダビデから離れ、アブサロムになびいていたのです。
それ故、ダビデは家来を引き連れ王宮から荒野の方へと逃れて行ったのです。
その時のことは、2サムエル15章には次のように記されています。
“12
アブサロムは、・・・、人を遣わして、ダビデの助言者ギロ人アヒトフェル、彼の町ギロから呼び寄せたこの謀反は強く、アブサロムにくみする民が多くなった
13
ダビデのところに告げる者が来て、「イスラエルの人々の心はアブサロムになびいています」と言った。
14
ダビデは、自分とともにエルサレムにいる家来全員に言った。
「さあ、逃げよう。そうでないと、アブサロムから逃れる者はいなくなるだろう。すぐ出発しよう。彼がすばやく追いついて、私たちに害を加え、剣の刃でこの都を討つといけないから。」
15
王の家来たちは王に言った。
「ご覧ください。私たち、あなたのしもべどもは、王様の選ばれるままにいたします。」
16
王は出て行き、家族のすべての者も王に従った。/
23
・・・。王はキデロンの谷を渡り、この民もみな、荒野の方へ渡って行った。2017)とあります。

 このような状況下で読まれた詩篇が詩篇3篇です。
詩篇3編の表題には、ダビデの賛歌。彼の子、アブサロムの前から逃れたときに。とあります。

 この時の状態を、ダビデは次のように記しています。
“1
なんと私の敵が多くなり、私に向かい立つ者が多くいることでしょう。
2
多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼には神の救いがない」と。2017)とあります。

 このことを、ダビデは部下に嘆いたのでしょうか。
或いは、「もう駄目だ」と思って言っているのでしょうか。

 主なる神様に信頼しないで、自分の何かだけに頼っているとしたらどのようになるでしょうか。

恐怖に襲われ、怒り、絶望するのみです。

 ダビデは、ヤハウェ(主)に信頼していました。
実は、上記の1節には、「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、なんと私の敵が多くなり、私に向かい立つ者が多くいることでしょう。」(2017)と記されています。

 ダビデは、ヤハウェ(主)に実情を訴えていたのです。
ダビデは、この様な状況下に置かれても、ヤハウェ(主)に信頼していました。
どのくらい信頼していたのでしょう。
詩篇35.6には、次のように記されています。
「私は身を横たえて眠り、また目を覚ます。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私を支えてくださるから。6 私は幾万の民をも恐れない。彼らが私を取り囲もうとも。」(2017)とあります。

 ダビデには、エルサレムに留まりながらでも戦う方法はあったのではないかと思うのですが、ダビデは、おそらくエルサレムが灰燼に帰さないようにとの思いもあって、神の都であるエルサレムを出たのではないかと、私は思います。エルサレムにいるよりも野戦の方が勝利しやすいとの考えも否定はできませんが。

 ダビデは、厳しい状況下に置かれても、「どうしよう、どうしよう」と狼狽するのではなく、「ヤハウェ(主)よ、・・・」と、ヤハウェ(主)に信頼し、ヤハウェ(主)に祈ったのです。

 箴言2925には、人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(新改訳第三版)と記されています。

 ダビデは、主に信頼していました。
ダビデは、主の御旨に叶うようにとの歩みを心がけていたと思います。
情欲に負けたこともありましたが。

 主に信頼し、主と共に歩んでいたとしても、まして、キリスト者の場合には、主が内に住んでくださっておられても、苦難には出会うのです。
主から見放されているのではなくても苦難には出会うのです。

 イエス様は、「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ1633後半部分・2017)と語られました。

 私たちが苦難に会うことは、主の中では織り込み済みなのです。
しかし、私たちには、勝利者イエス様がおられます。
私たちは、イエス様にあって、勝利を体験しながら地上生涯を歩んでいくのです。
苦難の期間は一定ではありませんが、主に信頼していれば、少なくとも平安は与えられます。

 イエス様は、「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」(ヨハネ14272017)と語られました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
如何に長い苦難を与えられようとも、その終局は勝利であり、その過程は、あなたと共にある平安であることを覚え感謝します。
常にあなたを愛し、あなたに信頼し続ける生涯であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。